80年代の文化を懐かしむブログ

昭和52年(1977年)生まれの筆者が小学生だった1980年代を思い返して綴るブログです

「土曜日半ドン」の思い出

土曜日半ドンの思い出

 

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今の若い人が「半ドン」と聞いても何のことかピンとこないと思います。
かく言う筆者も「半ドン」という言葉を聞かなくなって20年以上が経っていますから、先般いきなりこの言葉を出されて「なんだっけ???」となりました。


半ドン」とは主に土曜日の午後から休みになる事を意味していました。

ちなみに「半」とは半分の半、「ドン」とは休日の意味。つまり一日の半分休みという意味です。
※「どんたく」という古語から「ドン」が来ており、由来はオランダ語の日曜日の「ゾンターク」の訛った日本語からきているそうです(諸説あります)。

 

日本で週休二日制(土曜日、日曜日が休日)が勤労の場で導入されたのは1988年の労働基準法の改正、学校教育で導入されたのは2002年頃だそうです。
それまでは土曜日というのは午前中に学校や会社に行き勉強(労働)し、午後から休みという形態でした。


筆者が社会人として働き出す2002年には既に労働の場が週休2日(土日)が普通となっておりましたが、思い返すと大学生の頃もずっと土曜日は半ドンでした。
半ドン」の個人的な思い出を綴ってみました。

 

(小学校時代)
筆者の自宅から学校までは歩いて行ける近い距離でしたが、土曜日は給食が出ないため午前中の4時限目くらいで早くもお腹が空いていました。


土曜日午前の最後の時間割である4時限目が終わると、ホームルーム・掃除を終えてようやく帰宅が許されます。そこから家に帰ってご飯を食べるわけですが、当時は勤労の場も半ドンだったわけで、親は共働きだったため帰宅しても誰もいませんでした。
しかし、母親が朝作って用意してくれていた焼きそばやドライカレーといった温めるだけで食べることのできる作り置きが食卓にラップされた状態で置いてあり、筆者はそれを電子レンジで温めて食べていました。


小学校高学年になると、一人でコンビニ(パンプキンというコンビニ)に行けるようになっていたので親が置いていったお金が食卓にあり、近所にお昼ご飯を買いに行ったこともありました。

 

(中学校時代)
小学校時代と同じく、中学校時代も土曜日の半ドンは育ち盛りにはきつかったです。とにかくお腹がすいてたまらない。


中学校は給食が無く、各自弁当を持ってくるスタイルでしたが牛乳だけ学校から支給されていました。
しかし、土曜日は牛乳も支給されずお弁当の持参も許されていなかったので学校内で何も飲み食いできず、土曜日の午前が終わって家に帰るまでは毎週腹が減ってたまりませんでした。
中学校から家までの帰路に漬物工場があったのですが、土曜日の帰り道はその工場から漂ってくる漬物の匂いで食欲が最大限まで掻き立てられたのをよく覚えています。


買い食いは学校の規則で厳しく禁止されていたので(自販機で購入することすら禁止)、真面目少年だった筆者は当然買い食いはできませんでした。

 

(高校時代)
高校時代は1年生の頃から筆者は土曜日の午後は予備校に通っていました。
土曜日午前に学校の授業が終わると、予備校に向かうのですが学ランでも入りやすいカレー屋さんや蕎麦屋さんで食べてから予備校に行っていた気がします。予備校では友だちもいませんでしたから一人で昼飯を食べたら、ゲーセンや本屋さん(立ち読み)で時間をつぶしてから夕方からの予備校の授業を受けていたと思います。


ただし、高校3年くらいになると受験モードに切り替わるので土曜日は午前で授業を終えた後にコンビニで食べ物を購入してこっそり学校の図書館で勉強しながら食べていました(当然ですが高校の図書館は飲食禁止でした)。


また、校内にドリンクの自販機があったので最悪空腹で目が回るときはコーン入りのポタージュの缶を飲んで凌いだりしました。
そういう意味では緊急避難的な飢えを凌ぐ方法があっただけ小中時代よりマシだったかもしれません。

 

(大学時代)
大学時代も土曜日午前に授業がありました。
しかも1年生時は必修の授業が土曜日1時限目(AM8:40開始)からあり、「大学生になってまで朝6:30起きかよ!」とボヤいていた記憶があります。
しかし大学の場合は学食がありいつでも食事する自由があるため、午前の授業が終わると土曜日はクラスの連中とよくランチに行き、そのあと仲間内でボーリングに行ったり飲みに行ったりバイトに行ったりしていました。


大学2,3,4年時は土曜日に必修科目が無くなったため、土曜日に授業を入れず週休2日を実現させる人も多かった記憶があります。
筆者の場合は教職免許過程を履修していて、かなりの単位をこなさないといけないため2,3,4、年時も土曜日授業が入っていて、なんなら土曜日の午後も授業を受けていました。
いまの大学は土曜日でも履修できる授業があるんでしょうかね?

 

■「花金」との整合性
「花金」といって、週末を控えた金曜日の夜を表現した言葉があったと以前このブログで書きましたが、この記事を書いていて「おや?」と思いました。
筆者の小学校時代には「花金」とよく言いましたが、そもそも当時は土曜日半ドンだったので土曜日は休日ではありません。
なのになぜ「花金」なのですかね?
半ドンとは言え土曜日はお休みモードに近く、当時の人からすると気持ち的には土曜日は実質お休みみたいなもんだったんでしょうか。

 

■スペインは金曜日が半ドンでした
2016年に筆者はスペインに旅行に行ったのですが、スペインでは毎週金曜日の午後が半ドン(つまり休み)でした。
さすがプライベートな時間を大事にするスペインだと思いました。(その代わり若年層の失業率がかなり高いですが)。


日本でも個人消費喚起のため2017年に「プレミアムフライデー」といって月の最終金曜日は午後3時に業務を終えるというキャンペーンが実施されました。
しかし、残念ながら今のところまったく普及に至ってはいませんね。
いつか「金曜日も午前・午後フルで働いていたの?」と言われる時代が来るのでしょうか。

「10円ガムボール」の思い出

このようなカラフルなガムが入ったガチャガチャ見たことありますよね。

 

最近じゃヴィレッジヴァンガード以外ではあまり見かけなくなりましたが、筆者の子供のころ(1980年代)ではよく見かけたものです。

うちの近所では本屋さんに置いてあることが多く、漫画を買いに来たついでに10円でガチャガチャまわしてガムを噛みながら漫画コーナーをうろうろしたものです。

 

いまの本屋さんは原則飲食禁止ですが、当時はそういうルールはあまり考えられていなかったんでしょうかね?

10円で一粒ながらも大柄なガムでしたので暫く口の中で甘さを楽しんだものです。

もうガムなんて虫歯になりそうな食べ物はとんと食べたくない中年になってますので、見かけても買うことはなさそうです。

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「はなきんデータランド」の思い出

はなきんデータランド」の思い出

 

はなきんデータランド」という番組がテレビ朝日で1989年から1996年にかけて放送されておりました。
だいぶ長寿なバラエティー番組でした。

 

小学生の頃の筆者は毎週金曜日の夜に楽しみにみていました。

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筆者が小学生のときは桂文珍さん、喜多島舞さん、諸星和巳さん、池谷幸雄さんなどが出演されていたのを覚えています。
さまざまな人気や売り上げなどをランキング形式で毎週金曜日に紹介するという番組でした。

 

本や音楽CD、映画、アニメ声優といった比較的親しみやすいジャンルの人気ランキングを紹介していたので小学生の筆者は毎週金曜日の夕方この番組が楽しみでした。
ちなみに「はなきん」とはもう死語なのですが、「花の金曜日」の略です。
週末の休日を控えたわくわく感のある曜日という意味で当時使われていた言葉です。

筆者がこの番組で覚えているランキングの紹介は以下でした。

 

<映画部門>
1989年に公開されたジブリ映画『魔女の宅急便』ですが、登場してすぐにこの番組の映画コーナーで上位にランクインしていたのを筆者は覚えています。徐々にブランド力を高めていったジブリ映画ですが、初期の「子どもが見るアニメ映画」だったのが『魔女の宅急便』あたりから大人も映画館に観に行く作品に変わっていったんだなあと当時実感しました。


残念ながら当時筆者は『魔女の宅急便』を映画館に観に行きませんでしたが、「はなきんデータランド」で『魔女の宅急便』が取り上げられて子どもの時から(当時筆者は子どもでしたが)ジブリ映画が好きだった筆者は自分のことのように嬉しかったことを覚えています。

 

<小説部門>
2000年代に入ってから本の売り上げも電子版も含めてだいぶ落ちてきているわけですが、この当時はまだまだ日本人も本をたくさん読んでいました。


筆者が覚えている「はなきんデータランド」の本の売り上げ部門でランクインしていたのは、村上春樹さん著の『ノルウェイの森』と井上靖さん著の『孔子』でした。
恐ろしく学の無いバカガキだった当時の筆者は『ノルウェイの森』はノルウェーの話だと思っていましたし、『孔子』もなんの本だかさっぱりわかりませんでしが、読書家だったうちの両親は読んでいたようで両方とも当時家の本棚にありました。


後年、大学生くらいになって筆者が読むことになるのですが、やはりその当時売れていただけあって読み応えのある作品でしたね。

 

<声優・アニメ部門>
アニメの認知度が徐々に上がり、それに伴い声優さんの人気も80年代後半からあがってきました。はなきんデータランドでもアニメ・声優さんの人気投票コーナーがありましたが、高山みなみさん・田中真弓さん・神谷明林原めぐみさんあたり筆者は好きな声優でした。

 

高山みなみさんは当時ジブリ映画『魔女の宅急便』の主人公キキ役が印象的でした。

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田中真弓さんは当時の筆者は『ドラゴンボール』のクリリン、『おそ松くん』のチビ太、『天空の城 ラピュタ』のパズー役で印象に残っています。

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林原めぐみさんに至っては筆者はいまだに彼女のラジオ番組(Tokyo Boogie Night)をRadikoで毎週聴いてます。この番組は今年で放送開始から29年になるんですね。

※らんま2/1の女らんま魔神英雄伝ワタルのヒミコ役で当時好きでした。

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いまだに容姿端麗で素敵な声優さんですね。

彼女の明るいハスキーボイスに筆者は小学生のときから元気をもらっていました。

「光GENJI」の思い出

光GENJI」の思い出

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■ローラースケートが一大ブームに
1987年にデビューしてあっという間に人気を博し芸能界を席捲したジャニーズ事務所所属の男性アイドルグループの「光GENJI」についての筆者の思い出です。
ローラースケートで踊りながら歌うというアクロバティックなパフォーマンスに惹かれて当時若年層を中心としてとんでもないブームが巻き起こりました。

 

光GENJI」がTVに登場したとき、筆者は10歳前後でしたが「光GENJI」の人気に煽られてローラースケートを親に買ってもらい、近所の道路や学童でよく練習したものです。
デビューから瞬く間に人気が上昇していった「光GENJI」ですが、当時の歌番組は生放送が多く「光GENJI」が出初めのころはパフォーマンス中にローラースケートでのアクションに失敗して転んでしまうメンバーもいました。

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■人気絶頂時
人気絶頂のときはTVで「光GENJI」を見ない日は無いと言って良いくらいメディアに登場していました。
筆者の妹も「光GENJI」は大好きでしたから、親が「光GENJI」の曲のカセットテープ(まだ音楽CDはありませんでした)を買ってきてラジカセでよく聴いたものです。
「STAR LIGHT」、「ガラスの十代」「剣の舞」や「パラダイス銀河」といった曲は毎日のようにTVから流れていたのでメロディも歌詞もすぐ覚えてしまいました。

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また、同じく人気女性アイドルだった宮沢りえさんとバラエティー番組風の学園ドラマで「光GENJI」のメンバーが共演していたのもよく覚えています。
光GENJI」が人気絶頂のとき、当時子どもの筆者でも「ここまですごい光GENJIが今後人気が落ちたり、解散することはあるのだろうか」と考えたことがありました。

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■メンバーの誰が好きか?
当時の人気女性アイドルユニットの「Wink」もどちらがタイプか男の子の間で話題になりましたが、「光GENJI」もやはりメンバーの誰が好きかクラスの中やうちに来てくれていたベビーシッターの大学生のお姉さんとでも話題になりました。
内海光司さん、大沢樹生さん、諸星和巳さん、佐藤寛之さん、山本淳一さん、赤坂晃さん、佐藤敦啓さんという7人のメンバーで構成されていた「光GENJI」ですが、筆者の周りでは明るい陽気な諸星和巳さん、愛嬌あって母性本能をくすぐる山本淳一さん、キリっとしたイケメンの佐藤敦啓さんあたりに人気が集まっていました。

 

当時子どもだった筆者からみてメンバーの中心にいたのはかぁくんこと諸星さんだったと感じていました
当時人気があった女性プロレスラーのダンプ松本さんがトーク番組で「一緒にかぁくんとゴルフに行ったとき、私が途中で日射病になってふらふらになったとき、かぁくんが私をおんぶして運んでくれたのよ」と言っているのと見て、当時は筆者の中でだいぶ諸星さんの高感度が上がりました。

「ロックマン2 Dr.ワイリーの謎」の思い出

ロックマンDr.ワイリーの謎」の思い出

 

カプコンから1988年に発売されたファミコンソフトです。
「名作」と誉れ高い本作ですが、絶妙なバランスや優れたBGMによりいまだに愛されている作品です。

2000年代初頭ではニコニコ動画でこのゲームのBGMの替え歌が流行りましたね。


今回はこのゲームの思い出について。

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このゲームが発売された当時筆者は11歳前後でした。


当時出たばかりの新品ファミコンゲームは小学生にとって高額だったので、親にねだってもそう簡単には買ってもらえませんでした。

あるとき、友人のT君が親にファミコンソフトを1本買ってもらえることになり、クラスの中でもゲームにわりと詳しかった筆者に「どのソフトを買ったらいい?」と訊いてきました。


本来自分のやりたいゲームを買えば良いところですが、そのちょっと前にT君はゲームを買ったときとんでもないクソゲー(ストリートバスケットボールのゲーム。タイトル忘れました)を掴まされていたため、筆者に意見を訊いてきたわけです。

 

筆者はそこでロックマン2をT君に薦めたわけですが、なぜロックマン1をやっていない筆者がこのときロックマン2を薦めたかというと
1.アクションゲームで当時から安定した優れたクオリティを誇るカプコン製だったこと
2.「2」ということは「1」が好評だったから発売されたはず。なので「2」も面白いだろう。
3.ゲームの箱のイラストがカッコよかったから
の3点でした。

 

そして筆者の進言通り「ロックマン2」を購入したT君でしたが、筆者の予想通り「ロックマン2」は相当よく出来ているゲームでした。


好きな8ステージを選び好きな順にクリアしていき、そのステージのボスを倒すとボスが使っていた特殊技を習得できるという特異なアクションゲームでしたが、難易度で言えば小学生にはとにかく難しかった。

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どのステージのボスも初見では強敵ですが、別のステージのボスから習得した技を使うと簡単に倒せることがわかったり、単純なアクション要素の面白さに加えてプレイヤーの「気付き」で先に進める要素も魅力的でした。


我々がどうしても倒せなかったウッドマンをT君のお兄さん(T君より2歳年上)がメタルマンのメタルカッターで簡単に倒しているのをみて驚いたものです。

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また、死にゲー(死んで覚えるゲーム)でしたので何人かで誰かの家に集まって交代でプレーするのも楽しかったです。
「次、1機やらせて!!」と言いながらコントローラを奪い合ったものです。
しかし結局クリアできないまま、T君はロックマン2を飽きてしまったらしく筆者にロックマン2のソフトを貸してくれました。

 

借りたロックマン2のソフトを筆者は家で一人でやっていまして、最初の8ステージを順調にクリアしていきましたが、ワイリーステージのボスラッシュの後に出てくるメカに乗ったDr.ワイリーを筆者はどうしても倒せません。

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「ちくしょう、E缶があれば!」と叫びながら何度もDr.ワイリーに挑みますがどうにも勝てず。
※E缶とはステージの途中で拾えるアイテムで、いつでも体力を全快できる。ストック可能。

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ゲームオーバー時にE缶のストックが0個になるから最初からゲームをやり直し、E缶をたくさん持った状態でボスラッシュ後のワイリーと対決してついに勝利し、次の最終ステージで最後の形態のドクターワイリーを撃破して無事クリアしました。


また全クリした後、筆者は最強状態でやり直したかったため、強いパスワード(5x5マスに9個の赤丸)は主婦の店というスーパーの2階にある書店で「マル勝ファミコン」を立ち読みして覚えたものです。

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アクション性もさることながら、メタル調の音楽もとにかくカッコイイんですよ、ロックマン2って。
今でも忘れられない名作ゲームでした。

「音楽CD」の思い出

 

始めて目にしたCD

CD、つまりコンパクトディスクが登場したのは1982年頃だそうですが、それは筆者が小学校低学年のときです。

 

音楽CDが登場するまではラジカセにカセットテープを入れて音楽を聴いていました。

筆者は小学3~4年生のとき、放送部に入っていたので放送室から音声機器で給食時のお昼の放送や下校の放送を流したりしていたのですが、ある時6年生の先輩が「これ音が良いんだよな」と言い、丸い円盤(つまり音楽CD)を取り出して再生機器に入れたときは衝撃でした。


そのとき始めて音楽CDを目にしたのですが、メタリックながらも綺麗な丸みを帯びた曲線の物体に音楽が入っていることが驚きでしたね。

 

ついに我が家に来たCDラジカセ
その後、筆者の家でもCDラジカセを購入しました。
今は無いAIWAブランドのCDラジカセでした。

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我が家の初めての音楽CDは母親が買ってきた渡辺美里さんのシングルCDでした(曲名は覚えていません)。
始めて家のCDラジカセで再生したときは感動しましたね。
雑音がほとんど無い音の良さもさることながら聞き終わっても巻き戻さなくても良い(カセットテープは聞き終わると巻き戻さないといけなかった)点が素晴らしかった。

 

ちなみにシングルCDとは今ではとんと見かけなくなりましたが、このような小さい音楽CDで2曲(大抵ノーマルの曲とヴォーカル抜きの曲)が入っていました。価格は1000円なので、アルバムよりはまだ買いやすかったです。

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アルバムCD1枚3000円は高かった
でも今の相場からすると、シングルCDでの1曲1000円って高いですね。
筆者が初めて自分で買ったシングルは1990年にリリースされたKANさんの「愛は勝つ」のシングルCDでした。
これは単純ながらも子供にわかりやすい明るい曲でしたので擦り切れるほど聴きました。


当時はインターネットも無かったわけですから音楽を聴くにはTVで歌番組を見るか、CDを買うか借りるかしかありませんでした。
または友だちと音楽CDを貸し借りする感じでしたかね。


レンタル屋さんで音楽CDが借りることができるようになったのがいつかは思い出せませんが、筆者は中高のときによくレンタル屋さんでCDを借りてきてカセットテープにダビングしました。


また、音楽アルバムを購入するとなると1枚3000円前後もしたのでお金に余裕が無い中学生のときは厳選して購入した一枚を何度も何度も繰り返し聞きました。


中学生のときによく聞いていた買った音楽アルバムCDは覚えている限りだとThe Blue Heartsリンドバーグ広瀬香美Dreams come trueあたりです。
高校生のときはお小遣いも増えて音楽アルバムCDをたくさん買いましたが洋楽にハマっていたので、カーペンターズサイモン&ガーファンクルエアロスミス・スティングあたりは特によく聞きました。

 

ちなみに、筆者が大学生のときはMDプレイヤーを使っていませんでしたし、AppleiPodなどMP3プレイヤーが登場するのは筆者が社会人になって数年してから(2000年代初期)でしたので大学生のときはSONYのCDウォークマンを使っていたのを覚えています。

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音楽CDはいまだ実態のある音楽メディア媒体としては第一線ではありますが、インターネットが発達してからはiTunesなどからダウンロードで音楽を購入したり、最近では単体で音楽を購入せずSpotifyAmazonミュージックなどのサブスクライブで聞く機会が増えました。

「彫刻刀」の思い出

筆者はもともと絵を描いたり工作するのが好きだったので、小学校時代最も好きな科目というと図工でした。

小学校高学年くらいになると図工室で木の板を掘ってハンガーを作ったり、木彫りの板を工作したりしましたがそのとき用いたのが彫刻刀でした。

 

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小学校5年生くらいのときでした。

いつも通り図工の時間に彫刻刀を使って工作をしていたのですが、筆者は何か考え事をしていて気づいたら彫刻刀の刃の部分が半分くらい指に刺さっていました。

慌てて抜いたところ血が噴き出てきたのですが、なんとなく大ごとにするのが恥ずかしくてハンカチで抑えて保健室に行き、保健の先生に止血してバンドエイドを貼ってもらいました。