「光GENJI」の思い出
「光GENJI」の思い出
■ローラースケートが一大ブームに
1987年にデビューしてあっという間に人気を博し芸能界を席捲したジャニーズ事務所所属の男性アイドルグループの「光GENJI」についての筆者の思い出です。
ローラースケートで踊りながら歌うというアクロバティックなパフォーマンスに惹かれて当時若年層を中心としてとんでもないブームが巻き起こりました。
「光GENJI」がTVに登場したとき、筆者は10歳前後でしたが「光GENJI」の人気に煽られてローラースケートを親に買ってもらい、近所の道路や学童でよく練習したものです。
デビューから瞬く間に人気が上昇していった「光GENJI」ですが、当時の歌番組は生放送が多く「光GENJI」が出初めのころはパフォーマンス中にローラースケートでのアクションに失敗して転んでしまうメンバーもいました。
■人気絶頂時
人気絶頂のときはTVで「光GENJI」を見ない日は無いと言って良いくらいメディアに登場していました。
筆者の妹も「光GENJI」は大好きでしたから、親が「光GENJI」の曲のカセットテープ(まだ音楽CDはありませんでした)を買ってきてラジカセでよく聴いたものです。
「STAR LIGHT」、「ガラスの十代」「剣の舞」や「パラダイス銀河」といった曲は毎日のようにTVから流れていたのでメロディも歌詞もすぐ覚えてしまいました。
また、同じく人気女性アイドルだった宮沢りえさんとバラエティー番組風の学園ドラマで「光GENJI」のメンバーが共演していたのもよく覚えています。
「光GENJI」が人気絶頂のとき、当時子どもの筆者でも「ここまですごい光GENJIが今後人気が落ちたり、解散することはあるのだろうか」と考えたことがありました。
■メンバーの誰が好きか?
当時の人気女性アイドルユニットの「Wink」もどちらがタイプか男の子の間で話題になりましたが、「光GENJI」もやはりメンバーの誰が好きかクラスの中やうちに来てくれていたベビーシッターの大学生のお姉さんとでも話題になりました。
内海光司さん、大沢樹生さん、諸星和巳さん、佐藤寛之さん、山本淳一さん、赤坂晃さん、佐藤敦啓さんという7人のメンバーで構成されていた「光GENJI」ですが、筆者の周りでは明るい陽気な諸星和巳さん、愛嬌あって母性本能をくすぐる山本淳一さん、キリっとしたイケメンの佐藤敦啓さんあたりに人気が集まっていました。
当時子どもだった筆者からみてメンバーの中心にいたのはかぁくんこと諸星さんだったと感じていました
当時人気があった女性プロレスラーのダンプ松本さんがトーク番組で「一緒にかぁくんとゴルフに行ったとき、私が途中で日射病になってふらふらになったとき、かぁくんが私をおんぶして運んでくれたのよ」と言っているのと見て、当時は筆者の中でだいぶ諸星さんの高感度が上がりました。
「ロックマン2 Dr.ワイリーの謎」の思い出
カプコンから1988年に発売されたファミコンソフトです。
「名作」と誉れ高い本作ですが、絶妙なバランスや優れたBGMによりいまだに愛されている作品です。
2000年代初頭ではニコニコ動画でこのゲームのBGMの替え歌が流行りましたね。
今回はこのゲームの思い出について。
このゲームが発売された当時筆者は11歳前後でした。
当時出たばかりの新品ファミコンゲームは小学生にとって高額だったので、親にねだってもそう簡単には買ってもらえませんでした。
あるとき、友人のT君が親にファミコンソフトを1本買ってもらえることになり、クラスの中でもゲームにわりと詳しかった筆者に「どのソフトを買ったらいい?」と訊いてきました。
本来自分のやりたいゲームを買えば良いところですが、そのちょっと前にT君はゲームを買ったときとんでもないクソゲー(ストリートバスケットボールのゲーム。タイトル忘れました)を掴まされていたため、筆者に意見を訊いてきたわけです。
筆者はそこでロックマン2をT君に薦めたわけですが、なぜロックマン1をやっていない筆者がこのときロックマン2を薦めたかというと
1.アクションゲームで当時から安定した優れたクオリティを誇るカプコン製だったこと
2.「2」ということは「1」が好評だったから発売されたはず。なので「2」も面白いだろう。
3.ゲームの箱のイラストがカッコよかったから
の3点でした。
そして筆者の進言通り「ロックマン2」を購入したT君でしたが、筆者の予想通り「ロックマン2」は相当よく出来ているゲームでした。
好きな8ステージを選び好きな順にクリアしていき、そのステージのボスを倒すとボスが使っていた特殊技を習得できるという特異なアクションゲームでしたが、難易度で言えば小学生にはとにかく難しかった。
どのステージのボスも初見では強敵ですが、別のステージのボスから習得した技を使うと簡単に倒せることがわかったり、単純なアクション要素の面白さに加えてプレイヤーの「気付き」で先に進める要素も魅力的でした。
我々がどうしても倒せなかったウッドマンをT君のお兄さん(T君より2歳年上)がメタルマンのメタルカッターで簡単に倒しているのをみて驚いたものです。
また、死にゲー(死んで覚えるゲーム)でしたので何人かで誰かの家に集まって交代でプレーするのも楽しかったです。
「次、1機やらせて!!」と言いながらコントローラを奪い合ったものです。
しかし結局クリアできないまま、T君はロックマン2を飽きてしまったらしく筆者にロックマン2のソフトを貸してくれました。
借りたロックマン2のソフトを筆者は家で一人でやっていまして、最初の8ステージを順調にクリアしていきましたが、ワイリーステージのボスラッシュの後に出てくるメカに乗ったDr.ワイリーを筆者はどうしても倒せません。
「ちくしょう、E缶があれば!」と叫びながら何度もDr.ワイリーに挑みますがどうにも勝てず。
※E缶とはステージの途中で拾えるアイテムで、いつでも体力を全快できる。ストック可能。
ゲームオーバー時にE缶のストックが0個になるから最初からゲームをやり直し、E缶をたくさん持った状態でボスラッシュ後のワイリーと対決してついに勝利し、次の最終ステージで最後の形態のドクターワイリーを撃破して無事クリアしました。
また全クリした後、筆者は最強状態でやり直したかったため、強いパスワード(5x5マスに9個の赤丸)は主婦の店というスーパーの2階にある書店で「マル勝ファミコン」を立ち読みして覚えたものです。
アクション性もさることながら、メタル調の音楽もとにかくカッコイイんですよ、ロックマン2って。
今でも忘れられない名作ゲームでした。
「音楽CD」の思い出
始めて目にしたCD
CD、つまりコンパクトディスクが登場したのは1982年頃だそうですが、それは筆者が小学校低学年のときです。
音楽CDが登場するまではラジカセにカセットテープを入れて音楽を聴いていました。
筆者は小学3~4年生のとき、放送部に入っていたので放送室から音声機器で給食時のお昼の放送や下校の放送を流したりしていたのですが、ある時6年生の先輩が「これ音が良いんだよな」と言い、丸い円盤(つまり音楽CD)を取り出して再生機器に入れたときは衝撃でした。
そのとき始めて音楽CDを目にしたのですが、メタリックながらも綺麗な丸みを帯びた曲線の物体に音楽が入っていることが驚きでしたね。
ついに我が家に来たCDラジカセ
その後、筆者の家でもCDラジカセを購入しました。
今は無いAIWAブランドのCDラジカセでした。
我が家の初めての音楽CDは母親が買ってきた渡辺美里さんのシングルCDでした(曲名は覚えていません)。
始めて家のCDラジカセで再生したときは感動しましたね。
雑音がほとんど無い音の良さもさることながら聞き終わっても巻き戻さなくても良い(カセットテープは聞き終わると巻き戻さないといけなかった)点が素晴らしかった。
ちなみにシングルCDとは今ではとんと見かけなくなりましたが、このような小さい音楽CDで2曲(大抵ノーマルの曲とヴォーカル抜きの曲)が入っていました。価格は1000円なので、アルバムよりはまだ買いやすかったです。
アルバムCD1枚3000円は高かった
でも今の相場からすると、シングルCDでの1曲1000円って高いですね。
筆者が初めて自分で買ったシングルは1990年にリリースされたKANさんの「愛は勝つ」のシングルCDでした。
これは単純ながらも子供にわかりやすい明るい曲でしたので擦り切れるほど聴きました。
当時はインターネットも無かったわけですから音楽を聴くにはTVで歌番組を見るか、CDを買うか借りるかしかありませんでした。
または友だちと音楽CDを貸し借りする感じでしたかね。
レンタル屋さんで音楽CDが借りることができるようになったのがいつかは思い出せませんが、筆者は中高のときによくレンタル屋さんでCDを借りてきてカセットテープにダビングしました。
また、音楽アルバムを購入するとなると1枚3000円前後もしたのでお金に余裕が無い中学生のときは厳選して購入した一枚を何度も何度も繰り返し聞きました。
中学生のときによく聞いていた買った音楽アルバムCDは覚えている限りだとThe Blue Hearts・リンドバーグ・広瀬香美・Dreams come trueあたりです。
高校生のときはお小遣いも増えて音楽アルバムCDをたくさん買いましたが洋楽にハマっていたので、カーペンターズ・サイモン&ガーファンクル・エアロスミス・スティングあたりは特によく聞きました。
ちなみに、筆者が大学生のときはMDプレイヤーを使っていませんでしたし、Apple のiPodなどMP3プレイヤーが登場するのは筆者が社会人になって数年してから(2000年代初期)でしたので大学生のときはSONYのCDウォークマンを使っていたのを覚えています。
音楽CDはいまだ実態のある音楽メディア媒体としては第一線ではありますが、インターネットが発達してからはiTunesなどからダウンロードで音楽を購入したり、最近では単体で音楽を購入せずSpotifyやAmazonミュージックなどのサブスクライブで聞く機会が増えました。
「彫刻刀」の思い出
筆者はもともと絵を描いたり工作するのが好きだったので、小学校時代最も好きな科目というと図工でした。
小学校高学年くらいになると図工室で木の板を掘ってハンガーを作ったり、木彫りの板を工作したりしましたがそのとき用いたのが彫刻刀でした。
小学校5年生くらいのときでした。
いつも通り図工の時間に彫刻刀を使って工作をしていたのですが、筆者は何か考え事をしていて気づいたら彫刻刀の刃の部分が半分くらい指に刺さっていました。
慌てて抜いたところ血が噴き出てきたのですが、なんとなく大ごとにするのが恥ずかしくてハンカチで抑えて保健室に行き、保健の先生に止血してバンドエイドを貼ってもらいました。
「リゲイン」の思い出
筆者が小学校高学年のときに栄養ドリンクのリゲインがCMの効果もあり、ヒットしました。
■24時間戦えますか
「きぃろ~とくぅろ~は勇気のしるし」から始まるリゲインのCMはとても印象深く、当時小学5,6年の筆者や筆者のクラスメートたちもよく学校で唄っていました。
CMで使われたこの曲はCDも発売され、クラスメートのNくんがシングルCDでこの曲を買っていました。
時任三郎さん出演のこのCM。
ビシッとスーツに身を包んだ日本のサラリーマンが海外でぐいぐい働く様子を軽快な例の曲とともに表現しています。
今考えると凄い歌詞でした。
「24時間戦えますか」とは明らかに労基違反。
でも80年代のバブル絶頂時のこのとき労働の現場はより利益を上げるために長時間の残業が横行していたのでしょう。
筆者が小学生のとき、筆者の両親は毎日残業で遅く帰ってきたことを覚えています。
バブルが弾けて国全体の景気が悪化してからは帰りが早くなりました。
あれから30年近く経った2020年現在、「働き方改革」なる国の指針のもとに企業は残業をしない・させない方針で経営する方向に転換しました。
CMひとつ取ってみても世相をとても色濃く反映しているものですね。
「ドラゴンクエスト4(FC版)」の思い出 (その1)
例えば、発売前情報で仲間が主人公を除き7人いるとわかったときは筆者の界隈でも話題になりました。
2章
「ラーメンばあ」の思い出
「ラーメンばあ」というお菓子がありました。
チキンラーメンのような麺を揚げて棒状にしたお菓子ですが、シールが付いていたのでそれが筆者のコレクション欲に火をつけました。
このような袋に入ってスーパーやコンビニで販売されていました。
発売はKaneboさん。価格は一個60円でした。
60円と手ごろな価格でしたし、いちおうお湯に入れて食べることもできたのでおなかがすいているときによく間食代わりに食べていました。
筆者は小学3・4年くらいのときに買い始め、遠足でも持って行ったのを覚えています。遠足のおやつで買ったラーメンばあの第1弾で秘書マリリンが出たのを覚えています。
さて肝心のシールですが、ビックリマンチョコと比べるとイラストのクオリティやストーリーの作りこみはやや劣っていたと言わざるを得ません。
しかし、シールが二重になっていて一枚めくると違うシールになるギミックやシールのラメの光沢などにバリエーションがあり、十分コレクションに値するものでしたので、筆者は1年以上買い続けてシールを集めていました。
一枚目はこんな感じのシールですが、一枚めくると・・・・
こんな感じのシールが現れます。
女性キャラも結構いましたね。
一応初期は各キャラクターがプロレスラーという設定だったようです。
「ジレンマ」という女性キャラですが、小学生のときは英語のジレンマから来ているとはわかりませんでした。ちょっと怖いビジュアルだなー、と思っていました。
このアバンメーラはわりと後期に登場したと思います。
反対から読むと「ラーメンバア」だと気づいたときは笑いました。
このラーメンばあというお菓子は子供の時は本当に重宝しました。
ビックリマンチョコにしろガムラツイストにしろ、甘いお菓子はあんまりお腹が膨れずかといって食べ過ぎると胸やけする。
ラーメンばあだと丸かじりもできるお湯で解いてインスタントラーメンのように楽しむこともできるのでいつもお腹が空いていた小学生の筆者は助けられました。
ちなみに、ラーメンばあというと講談社のコミックボンボンとタイアップしていました。
ラーメンばあの新弾のシール紹介もボンボンを介して知りました。